明治神宮を救った 父・福島信義(2)※「神の手のミッション福島孝徳」 第8章【書籍抜粋】

1958年、新社殿の造営

 明治神宮の社殿が再建されたのは1958年。信義氏は新社殿造営を担当する部長として多忙な日々を送った。外山名誉宮司は、総務部で部下として働いた。

「信義さんは、木曾の旧御料林にも出かけ、心柱に供する木を選ぶところから担当されました。私は大工さんや職人さんを募集しました。それまで神職になる勉強ばかりしていたので、労務管理についての知識はまったくありません。でも、信義さんだって一から英語を勉強して明治神宮のお役に立ったのだから、私も頑張ろうと思いました。

 苦労したのは食事の手配です。毎日、力仕事をされていた大工さんたちは、私の顔を見ると空腹を訴えるのです。当時、お米は配給でした。部長の信義さんに『農林省に掛け合って労務加配米をもらってこい』と指示されました。復興のために公の仕事をする労働者には、加配米という制度があったのです」

 上司としての信義氏は、甘えを許さない厳しい一面もあった。

「帳簿の整理も私の担当でした。ある日、信義さんに『○日までに整理しておくように』と命じられ、量が多かったものですから「できません」と答えました。すると「やりもしないうちに、できませんとはなんだ。最大限やってみて、できないというのならわかるが、最初からできないというのは許さない」と叱られました。

 そんな調子で毎日、夜中まで仕事に追われました。『これは仕事じゃなくて、ご奉仕だ』とよく言われました。神様と参拝される方々へ、私心のまったくないご奉仕です。

 そうした信義さんを父として育った孝徳さんですから、医学という道に進んでも、患者さんへの奉仕を第一に考えるようになったのではないでしょうか」

 1958年10月31日、本殿遷座祭遷御の儀がおごそかに執り行われた。福島はその日のことをはっきりと覚えている。

「私は高校生でしたが、ご遷宮の儀式を目の当たりにすることで父の偉大さを実感しました。子供の頃は明治神宮への奉仕を最優先し、家族を後回しにする父を恨んでいました。父の口癖は『人のために働きなさい』。当時の父の年齢となり、父の生き方を深く理解できるようになりました」

神道以外にはまったくエネルギーを使わず家族を省みなかった父に反発した福島だが、父と息子は神職と脳外科医という違いはあるものの、まったく同じ人生を歩んでいる。父の背中は無言のうちに息子に生き方の指針を示したのだ。

 信義氏は明治記念館の館長にも就任し、結婚式場、引き出物や料理の会社を作って収益を上げた。福島の独創力は父譲りのものだ。

 館長としての職務に打ち込む一方で、日本人として知っておくべき礼儀作法をまとめた『日本礼法』もまとめた。

「緻密な方ですから、食事作法、お茶の出し方など分類整理してまとめあげました。礼の仕方一つとっても、90度、60度、45度と角度別に整理していました」と、外山名誉宮司は言うが、これもミリ単位で手術道具にこだわる福島とそっくりだ。

 中島宮司も『日本礼法』については格別な思いがある。

「職場では礼儀作法に間違いがあってはいけないと気をつけていました。なにしろ『日本礼法』をお書きになった方ですから、ご一緒に食事をするときはとても緊張しました。フォークやスプーンがずらっと並んだ洋食のときは、間違えてはいけないと、正面に座られている信義さんをそのまま真似しました。外側のフォークを取ったら私も同じフォークを取るといった具合に。信義さんは笑って『二人きりのときは、そんなにかたくなにマナーを守らなくてもいい』とおっしゃってくださいました」

科学と宗教の絶妙なバランス

 中島宮司の福島信義氏の第一印象は、「とにかく几帳面な人」だという。

「たとえば、机の上の定規を置く位置が決まっていて、いつも寸分たがわずそこに置くのです。出張先でホテルに宿泊し、お迎えの時間が来たので部屋にうかがうと、背筋をぴんと伸ばして椅子に座っていらっしゃった姿が印象的でした。

 ふとベッドを見ると、本当に昨晩ここで寝たのだろうかと思うぐらい、きれいにベッドメーキングされていました。当時の信義さんは70代後半でしたが、常に身だしなみはすっきり整えられ、姿勢を正しておられました」

 高齢になっても衰えない信義氏の頭脳の働きには舌を巻いた。

「80歳を越えても、挨拶文の原稿を作り、暗唱されていました。舞台の袖で原稿を見ていると、一字一句そのままに話しておられるのでびっくりしました。句読点での息継ぎまで原稿通りです。あの記憶力と集中力はそのまま福島先生に遺伝したのでしょう」

 寡黙な信義氏は家族の話はほとんどしなかった。Dr.福島がアメリカに渡るとき、送別会は明治記念館で開かれたが、公私のけじめをしっかりつける信義氏から、「プライベートな会だから、君は来なくていい」と言い渡された。

「それでも、明治記念館で開かれるのだからと、無理を言って出席させてもらいました。大広間に人があふれている盛大な会でした。福島先生にお目にかかったのはそのときが初めてです。

『私が今日あるのは、すべて両親のおかげ』とスピーチされていました。そして、『私はアメリカに行ってしまい、両親にもしものことがあっても、すぐ帰って来られません。中島さん、よろしく頼みます』と丁寧な挨拶をいただきました。その後も、帰国されるたびにお気遣いいただいています。

 多忙な先生ですから、お目にかかれないままアメリカに戻られることもありますが、『くれぐれも両親のことを頼みます』『父には、あんまりお酒を勧めないでくださいね』と電話で挨拶いただきました」

 そして、Dr.福島に会うたびに、両親に似てきていると感じるという。

「親子なんだから似るのは当たり前でしょうが、年を重ねられるごとに、雰囲気やしぐさ、しゃべり方がご両親にそっくりになっていらっしゃるように思います。特に、早朝に参拝される福島先生の後ろ姿はお父さんの面影があります。

 私がお仕えしたすばらしい上司のご夫妻に、すばらしいお子さんが授かり、明治神宮の森で育ち、世界的な脳外科医になられた。私ども明治神宮にとりましても、福島先生には日頃大変お世話になっておりますが、明治神宮の神職の息子さんとして誇りに思いますし、末長く語り継がれていくでしょう。

「明治神宮は私が生まれたところであり、心の原点です」

 脳外科という最先端の科学の中にサムシング・グレート、大いなるものを見つけ出したのは、科学と宗教が絶妙なバランスで福島先生の中で培われているからでしょう。福島先生のご活躍を耳にするたびに、私も宗教家としてのほほんとしていられないと身の引き締まる思いです。宗教家は、命について語っても、直接、命を扱うことはありませんが、福島先生はぎりぎりのところで毎日、命と向き合っているのですから。

『神の手』は、医学の技術だけで成り立っているのではなく、精神的なものに深く根ざしています。福島先生との会話では、『先生、そのお話は医学ではなく、神道です。神社の教えそのものですよ』と申し上げています」


「全力を尽くして患者さんを助けるのが、私の人生です」。
世界を飛び回り、ミクロン単位の超精密鍵穴手術を年間600件も手がけ、99%以上成功させているDr.福島は、「神の手」「ラストホープ(最後の切り札)」と呼ばれてきた。60代半ばとなった現在でも、手術にかけるエネルギーは衰えを知らない。
本書はDr.福島の常に進化している手術技術や、世界の若手医師の育成について、Dr.福島が救った数々の患者さんの体験談、日本医療の拠点となる、千葉県にオープンした塩田病院附属福島孝徳記念クリニックに賭ける情熱など、世界一の脳外科医の最新情報を掲載。
また、Dr.福島の原点となる、明治神宮の神職だった父に「人のために働きなさい」と育てられた幼少時代が語られており、すべてを患者さんのために捧げた男、福島孝徳のすべてがわかる最新刊となっている。

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2024年2月20日