人間・福島孝徳<5><6>   ※ラストホープ2章【書籍抜粋】

5.「風雲児」との出会い

ラストホープ 福島孝徳

三井(記念病院)にいた頃の私は、とにかく手術、手術の繰り返しでした。佐野先生の強い推薦があればこそ、この病院の部長医師になれたわけですし、この時代に私が経験したことは今も医師としての礎になっています。だからやっぱり、佐野先生には感謝の言葉しかない。

とはいうものの、病院にはそれぞれのスタイルや考え方、システムというものがあります。三井は歴史ある有名病院ですから、できることとできないことがはっきりしていました。例えば私はアメリカでも経験してきたような、複数の手術をいっぺんに進行できるような環境が欲しかった。病院内のシステムさえ改革すれば、病気で困っている患者さんを多数治療することは可能なんです。それから、先進の手術を実現するには道具も必要でした。ですから、部長となってから数年の間は手術を多数やりながら、同時に病院内の様々なシステムや環境を変えていくこともしました。

病院内でも、当初は「本当に三十代の男に部長が務まるのか?」ぐらいの気持ちはあったはずです。でも、成果が上がっていけば評価も変わります。海外からも有名な医師が続々と見学に来てくれました。そうしたことも手伝って、三井の手術例はみるみる増えていきました。猛烈に働きましたね。

ただ、若さゆえといいますか、今よりもずっと厳しかったとは思いますね。特に最初から私の部下となってくれた田草川君には、ものすごい勢いで叱ったりしてました。それでも結局僕のそばから逃げ出さなかったんだから、彼もすごい男ですよ。三井では最終的に四〇人くらいの医師を育てたつもりですが、やっぱり彼が一番弟子ということになるのかな。三井時代の後半になって金君(現・独協医科大学教授)や森田君(現・東大助教授)も来たけれど、その頃にはだいぶ丸くなっていたはずです。

でも、三井の中だけで手術をしていても、私の成長欲求は満たされませんでした。アメリカならば、今の私がそうであるようにともかく臨床を優先して次々に手術をしていくことができる。自分自身の経験も深まるし、何より多くの患者さんを治すことができる。日本の有名病院の部長先生になって、海外からも患者さんや見学者が来る、となればふつうはそれで満足したりするのでしょう。私もあの頃、あそこにゆっくりしていたら、今頃はそれなりの地位に就いていたかもしれない。けれども、「もっといい処置方法があるはずだ」「もっと難しい病気も治せるはずだ」という気持ちがどうにもおさまらない。

嬉しいことに日本全国の病院から「福島に手術してもらいたい」という要請も来るようになっていました。だから、迷うことなく、時間さえあればよその病院にも行って診察や手術をするようになりました。この頃から「旅から旅へ」の生活は始まっていたんですよ。三井で年間六〇〇の手術をしながら、他の病院で三〇〇の手術もした。その結果が年間九〇〇という数字です。

そして、そんな中で出会ったのが今、財団法人脳神経疾患研究所(総合南東北病院グループ)の理事長をしている渡邉一夫さんです。私のモットーは「手術一発全治」と「すべてを患者さんのために」ですが、なんと渡邉さんもまったく同じ考え方の持ち主だった。当時から大学病院の偉い人なんかと侃々諤々の言い争いもしていた私にとって、非常に貴重な同志が生まれたような気分でした。違う点があるとすれば、彼はその後、医師として手術台で革命を起こすのではなく、病院経営者としてこの国に変革を起こしている。私のほうは、当時と変わらず手術の可能性をひたすら追い求めています。でも、選んだ道や方向は違えども思うところは互いに変わっていません。

彼が経営する病院は今や日本でも最大級。設備もスタッフも非常にハイレベルです。先にも話した通り、日本では個人や特定の法人が経営する病院がなかなか円滑に経営努力を結果に結びつけにくい弊害が制度的にある。それを乗り越えてここまで来たわけです。だから、私は彼のことを「日本医療界の風雲児」と呼んでいます。しかも嬉しいことに、彼の病院の入り口のところには「すべては患者様のために」という院是が貼りだされている。同志というよりは義兄弟のようなものですね。

そうは言っても、当時は二人ともお金がなかった。志は高いけれど、まだまだ道遠し。

無一文からスタートして小さな病院を建て、そこからせっせと大きくしていった彼のため、微力ながら借金の保証人を買って出たりしていました。

その彼が、二〇〇四年春、おそらく日本最大級となるPET(陽電子放射断層撮影装置)センターをスタートさせます。すごいことです。世界の脳神経外科の先頭を行こうかというウエスト・ヴァージニア大学のトップまでが「是非見せてくれ」と、私に言ってきましたよ。そんな施設を彼は作るんです。だから「風雲児」なんです。

6.アメリカへ―異国が教えてくれたもの

十年を超える三井記念病院での実績も加わり、脳神経外科医「福島孝徳」の名はさらに世界へと知れ渡っていった。

しかし、それは同時に福島氏自身が日本の医療、医療をめぐる人々などに対して疑問や怒りを募らせていった日々でもある。世界の国々からは賛辞が寄せられ、高い評価も受けている。なのに母国では、味方もいるが彼の存在をよしとしない人々もいた。しかるべきポジションに立ち、発言力や影響力を強化したいと願っても様々な妨害にあったりもした。

そんな折もおり、彼を高く評価するアメリカの南カリフォルニア大学から臨床教授就任の依頼が届いた。猛烈に働き続けていた当時四十代末の名医の心は揺れた、何度も佐野氏のもとに相談に行った。

佐野氏はこの時、どう考えたのだろうか。

「アメリカ行きのきっかけになったのは南カリフォルニア大学の引き抜き話ですが、これはすごいことなんですよ。基礎医学ではなくて臨床の教授としてアメリカの一流校が招きたいと言ってくれるなんてことは、日本の医学界でも滅多にないことでしたから」

アメリカでは手術の名手は高い評価を受ける。「治せる医者」がいるかどうかで、患者からの病院の評価が変わることを知っている。高度な臨床教授がいるかどうかで国際的な注目度も変わる。だから医師には手術に専念できるような環境が与えられるし、その中で医師たちは経験を積んでいける。

一方の日本では、先にDr.福島が言っていたように臨床実績よりも論文の数や、人脈が医師の地位を決めてしまう状況が続いている。だからDr.福島のように臨床を重んじる医師は少なく、当然の結果として海外の有名大学から「臨床教授」就任を打診される日本人ドクターも希だったわけだ。佐野氏はこれを誇るべきこととして受け止めたのである。「彼はあの時点でももうすでに他の追随を許さない素晴らしい手術ができる男でした。彼のためを考えたなら、もっと思い切り手術に専念できる環境のほうが適しているんではないかと、私は考えました。仮に東大に戻っても、他の日本の大学に入るにしても、彼に相応しいポジションなんてなかなかない。むしろ臨床に専念できるアメリカが彼にはいいのではないかと思いました」

Dr.福島はこの時のことをこう語る。

「四十八歳の時です。たくさんの手術をしていましたが、なんとなく壁がありました。南カリフォルニア大学から来てほしいという話があったとき、私はアウトサイダーでアクロバティックといわれた鍵穴手術をやっていて不安がありましたが、行くことにしました」

Dr.福島は決意を固めた。

この決定に驚いたのは、三井記念病院の人々だった。田草川氏は当時をこうふり返る。「だって、アメリカに行くといったって、もう福島先生は四十八歳だったんですよ。いくらなんでもその年齢でアメリカへ行くなんて……。みんな止めましたよ。もちろん先生がものすごいドクターだってことは全員が知っていました。だけど、まさか今みたいに成功するなんて普通は想像できませんでしたから」

福島氏自身も、「実はね」と前置きしてこう言っていたことがある。

「本当は好きでアメリカに行ったわけじゃあないんですよ。泣く泣く赤い靴をはいて異国に渡ったんです」

複雑な胸中がそこにあったのだろう。しかし、福島氏はこう付け加える。「でも行ってよかった。これは正真正銘の本音です。なぜなら外側から日本を客観的に見て、自由に日本に対して意見を言えるようになりましたから。それまでのようにくだらないしがらみなんて、アメリカへ行った瞬間になくなったわけですからね。アメリカでは実力がすべてです。四十八歳でも勉強しました。アメリカの最初の八年くらいで本当のプロになったという感じがします。それにね、人は外国へ行くと愛国心が強まります。負けるものかと情熱も強くなります。ファイトがわいたんですよ、四十八歳にしてね(笑)」 その後、いかにDr.福島が成功したかについては、すでにお伝えした通りだ。だが、この成功だってすんなり手に入ったわけではない。もちろん、手術における能力は日本にいるときから折り紙つきだった。実力があればフェアに讃えるアメリカ文化にも支えられた。それでも、いつも心は日本にあったという。


TBS「情熱大陸」、TBS特番「これが世界のブラックジャックだ!名医たちのカルテ」などで紹介。神の手を持つ男といわれる脳外科医福島孝徳の初の人物ルポ。

第1章 ブラック・ジャックと呼ばれて(“神の手”は持っていません;最後の頼みの網「ラストホープ」 ほか)
第2章 人間・福島孝徳(「神の子」?いいえ、ただの不良でした―ブラック・ジャックの生い立ち;闘争世代の青春 ほか)
第3章 世界一の手術師(鍵穴手術;常識の枠を超越した“手術の鬼” ほか)
第4章 日本医療界を改革せよ(拝啓 小泉総理大臣殿、敬意を込めてもの申します;新・臨床研修制度で本当に医師は育つのか ほか)
第5章 名医を探せ!(名医の条件;日本にも名医はたくさんいる ほか)

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2024年8月20日