1.「神の子」?いいえ、ただの不良でした
――ブラック・ジャックの生い立ち
一九四二年、私は明治神宮の神官を務める父と、代々神職を務めた家に育った優しく気丈な母のもとに生まれました。家も明治神宮の中にあったんです。
一般の人にはちょっと不思議かもしれませんね。ただ、「神官の子」だからといって、私がとびきりの神童だったかというとそうではないし、イメージとして浮かんでくるような行儀のいい子供でもなかったんです。
一言でいうなら「やんちゃ坊主」、悪ガキですよ。それも相当に悪かった。イタズラばかり繰り返すので、母はしょっちゅう学校に呼び出されていましたよ。挙げ句の果てには、小学校三年生の時、やんちゃ過ぎるということで、転校までする羽目になりました。
どれだけやんちゃだったかというと、例えばストーブを使ったイタズラをして叱られたりしました。当時はまだ昭和二十年代ですから、学校では石炭ストーブが暖房器具として備えられていました。僕はそのストーブの排気用の煙突を取り外して、教室の入り口に向けたんです。どういうことが起きるかはわかりますよね?
始業時間になり女性教師がやってきてドアを開ける。もうもうたる黒いススが教師の顔を直撃……。
こんなことを毎日考えては繰り返していたんです。今となっては他愛のないイタズラにしか聞こえないかもしれませんが、やはり当時の学校では問題になりますよ。それで、とうとう転校せざるを得なくなったんです。
母親は毎日のように嘆いていました。でも、私は母親が大好きでした。「お婆ちゃん子」
という言い方はよく聞きますけれど、私の場合は言ってみれば「母親っ子」です。
父のことは心から尊敬していましたけれど、誰になついていたのかといったら母親なんです。まあ、母のほうも父に負けず劣らず厳しかったんですが、それでも懲りずにやんちゃをしていた。それが私の少年時代です。
ただし、小中高を通じて成績のほうはピカイチだったんですよ。ついたあだ名が「一夜漬けの福島」。皆にそう呼ばれていました。勉強なんてろくにしなかったんですが、試験前になると教科書を丸ごと覚えてしまうような勉強のしかたをして、それでいい点が取れていたんですね。
ところが、一夜漬けが通用しない科目もありますよね。例えば美術や工作。それらはとりわけ得意だったんですよ。これはもって生まれたものなんでしょうねえ。普通の科目の勉強は嫌いだったけれど、美術や工作は本当に好きでやっていたし、作ったものが学校や地域で賞をもらったりもしていました。
今になって考えれば、こういう手先で何かをするのが得意だというのは、手術にも通じているのだと思います。親に感謝するばかりです。
さて、成績はいいのに素行が悪い、という状態はずっと続きました。
小学校を出て中学に入っても変わらなかった。いや、むしろ大きくなるにつれて悪くなっていったのかもしれません。悪ガキがそのままグレて不良少年になったんですよ。中学時代、年上の高校生のお姉さんが好きになって海水浴に行き、帰ってこなくて母にこっぴどく叱られたりね。私には兄貴がいたんですが、その兄がまたワルでして、僕が高校生になった頃には二人して新宿の街を昼間からうろついていました。
ただし、ケンカばかりするような蛮カラな不良ではなかったんですね。その正反対。とにかく軟派な不良で、女性のことが大好きな遊び人でした。どういうわけか、年長の女性によく可愛がられもしました。そうこうするうち、高校二年生の頃に大好きな女性ができまして、家を出てなかば同棲みたいなことを始めてしまいました。でもね、本当にこの人のことは大好きだったんです。変な言い方かもしれないけれど、ある意味、純愛だったんです。でもまあ、そんなこと言ったって高校生ですから、まわりが「はい、そうですか」で済むわけがない。大騒動になってしまいました。
いどころがわからなくなった放蕩息子を探しに探して場所を突き止めた母親が、まずは一人で同棲をしていた部屋に乗り込んできました。この時は、大あわてでなんとか押し入れに隠れて逃げおおせたんですが、数日後、今度は母親が叔父も連れて出直してきた。これには参りました。
今度はすぐに見つかってしまって、「こら、孝徳、出てこい!」とね。たっぷりお灸をすえられちゃいました。母親っ子でありつつ、私はこの叔父も大好きでした。ところが、この叔父もまたご多分に漏れず厳しい人だったんです。そして、仕事は開業医だった。彼は不良の甥っ子を一喝し、こう詰め寄ってきたんです。
「孝徳、今ここではっきりさせろ。このまま不良を続けてヤクザになるのか、それとも改心して医者になるのか。さあ、どうするんだ」
たしかに叔父の人格は好きだったし、よく遊びに行った病院では看護師やスタッフに可愛がられ、嬉しかった。そして医者という仕事自体にも叔父を通して関心は持っていました。困っている人を救う仕事を素晴らしいと思っていたんです。
そこへ、この時のようないきさつも手伝って、知らぬ間に医者を本気で志すようになっていきました。隠れていた部屋で苦し紛れに「医者になります」と答えたのは事実ですけれど、もうこの時期には自分の中にも「医者になりたい」という気持ちは芽生えていたんですよ。
ただ、そうは言ったって、今までろくに勉強してなかった不良高校生が医学部に簡単に受かるわけはないですよね。一浪をした後、東大の医学部に入りました。さしもの「一夜漬けの福島」も、大学入試には手こずったというわけです。
ところで、現在の私の趣味はといえば、三ヵ月に一度くらいしか行けないのが悲しいんですが、ゴルフに熱中しています。アメリカへ移り住んでから覚えたので、上達するには至りません、ともかく楽しい。
そして、そのゴルフよりも長く親しんでいる趣味の一つが、ドラムの演奏です。今も大きな学会があるたびに、皆を前にレセプションとして演奏をするんです。脳神経外科医ばかりのジャズバンド、そこでドラムの腕前を披露する。
これはちょっと自慢しちゃいますねえ。なんてったって、練習なんてろくにできない忙しさですけれど、そこは昔取った杵柄。即興でも何でもバッチリ決めますよ。二〇〇三年の春にハワイで学会が開かれた時には、ジャズだけでなくハワイアンまで演奏しました。そして、この時のライブパフォーマンスをCDにもしたんです。
ドラムを始めたのは高校生の頃でした。当時はジャズが最も先鋭的な音楽でしたから、兄と新宿をうろうろしている時にもあっちこっちから聞こえてきます。その自由な演奏スタイルに魅せられてしまったんですね。
「こうしなきゃいけない、これをやっちゃいけない」、なんてつまらないルールがジャズにはないんです。ジャズはハートなんです。私にぴったりじゃないですか。でもね、ドラムってのは普通はとても難しい楽器です。だって二つの腕と二つの脚、四つがまるで違う動きをするんですからね。ただ、今になって思えば多少なりとも手術の技術にも通じる楽器をたまたま選んでいたんですね。
ともあれ、どうしようもない不良が一応東大に入ったわけですから、父も母も安心したようです。まあ、本当を言うと、遊びほうけていた時代はもう少し先まで続くんですけれども……。
2.闘争世代の青春
では東大に入ってからの福島氏はどうだったのだろう?
「それがねえ、前半はやっぱり遊んでばかりでしたよ。駒場なんてほとんど行ってなかったんじゃないかな。青春は二度と来ないという感じでやっていました」と苦笑する。
ところでこの時代、福島氏には大きな出会いがあった。同級生、堀智勝氏との出会いである。堀氏はこれまでにも紹介した通り、現在は東京女子医科大学の教授となっている。
「僕が『ホリ』で、彼が『フクシマ』でしょ。学生時代は五十音順でまとまることが多かったので、そのたび彼が近くにいて、いつの間にか親しくなっていったんでしょうね」
東京女子医大附属脳神経センターを訪ねると、堀氏はこう教えてくれた。
「僕は準硬式野球部に入っていましたから体育会系ですね。いっぽう彼は高校生の頃からジャズのドラムをやっていたので、早稲田まで行って、そこのジャズバンドに参加したりしていました。とにかく女性にモテる男でしたよ。脚が長くて見た目も良かったし、なんといってもあの当時から口が達者だったから(笑)」
なるほど、Dr.福島が自己申告した通り、相変わらずの軟派ぶりだったのである。さらに堀氏は続ける。
「スキーに夢中になっていましたね。彼が山小屋を借りて、一緒に行くとなぜか毎回のように複数の女性も来ていた。いつも違う女性たちがね(笑)。まあ、それはさておき彼はあの頃から何かに夢中になると、徹底的にやりましたよ。スキーをうまくなりたいと心に決めたら、冬の間スキー場でアルバイトをしながら特訓したりしました」
「徹底的」「没頭」という言葉は、堀氏に限らずDr.福島を知る人が、その人間性を語る時に頻繁に使われる。
さて、やはり気になるのは「どうして福島氏が脳神経外科を選択したのか」だ。先にDr.福島自身が教えてはくれたのだが、あらためて聞いてみた。
「僕はけっこう早くから脳神経外科に行こうと決めていましたが、彼は心臓外科とかがんに興味があったようですね。でもある日、彼が『きみ、脳神経外科の何が面白いんだ?』と聞いてきたので、僕なりに話をしたんです。そうしたら、いつの間にか彼も脳神経外科に行くことにしたみたいですね」
時は昭和四十年代。昭和四十一年頃から徐々に学生運動の芽が動き始める。インターン制度廃止をめぐって学内は騒がしくなり始め、その後、安田講堂立てこもりなどに発展していった。堀氏と福島氏はそんな歴史的紛争のさなかに東大にいた。満足のいく学習などできるはずもない。学生の心には苛立ちや怒りが沈殿し、それが噴出、学園内は荒れ果て負傷者が続出するようにもなる。昭和四十三年、形としては卒業になったものの、研修制度も大幅に変更され、落ち着かない日々が続いた。
こうした時代を背景に堀氏と福島氏の縁はさらに深くなる。
「卒業して東大の医局に入ると、昭和四十四年から二人一緒に警察病院で研修を受けることになりました。ここからまた四~五年一緒でしたね。一応、医師免許は獲得しましたから、研修の間も病院の当直とか、血管撮影といったアルバイトを二人で半々に手分けしながら生活をやりくりしました。たしかに疲れていましたけれど、エネルギーが溢れていましたね。本当の意味で苦楽をともにして親しくなったのはこの時ですよ」
そう語る堀氏は、昭和四十八年にフランスへと留学。福島氏のほうは同じ年、ドイツのベルリン自由大学へ向かった。ここからはそれぞれ異なる地で脳神経外科医としての人生を歩むわけだが、事あるごとに会い、議論し、励まし合う関係が今なお続いているのだ。堀氏は続けてこうも語った。
「彼は女性にはモテたし、親しくつきあう人間も大勢いました。けれども、彼のことを嫌うヤツも少なくはなかった。まあ、たしかに際立った人格の持ち主ですから、好き嫌いがはっきり分かれてしまうんでしょうが、僕も友人に『よくあいつとつきあえるな』なんて言われたりもしました」
「際立った」のは性格ばかりでなく、行動にも表れていたと堀氏は言う。
「彼は不思議ですよ。三日くらい寝なくても平気なんです。その逆もある。学生の頃も三日間学校へ来ないことがあって、『何をしていたんだ?』と聞くと『ずっと寝てた』(笑)。食事も数日全然しなくても平気なんですが、いざ食べる時にはびっくりするくらい食べる。医学上はあり得ないはずなんですが、寝だめ、食いだめが彼はできちゃう人なんです」
後々、福島氏が教授選の渦中にあった時も、堀氏はその一連の趨勢を間近で見聞きしていた。
「たしかに教授選云々についてはいろいろありました。結局彼は教授になれなかったんですが、いまだにそれを引きずっているとは思いません。リベンジのような気持ちはさらさらないはずですよ。そもそも我々医者の本当のエネルギー源は、難しい病気の患者さんを治すこと。それで患者さんに喜んでもらうことですから。そういう気持ちを人一倍彼は強く持っています。とにかく、言いたいことをずばずば言ってしまうあの性格は損をします。今、この人にそんなことを言わなくても、というようなことを平気で言ってしまう(笑)。だからいまだにリベンジの気持ちがあるんじゃないかとか、疑われたりもするのでしょう。でも、治してもらった患者にとっては彼は神様だろうし、それが彼を支えているはずです。ただ、まあものすごく人間臭い男ですよ。ジェラシーも強いし、喜怒哀楽も激しい。僕に言わせれば、彼のそんなところが魅力なんだし、好きなんですけどね(笑)」
TBS「情熱大陸」、TBS特番「これが世界のブラックジャックだ!名医たちのカルテ」などで紹介。神の手を持つ男といわれる脳外科医福島孝徳の初の人物ルポ。
第1章 ブラック・ジャックと呼ばれて(“神の手”は持っていません;最後の頼みの網「ラストホープ」 ほか)
第2章 人間・福島孝徳(「神の子」?いいえ、ただの不良でした―ブラック・ジャックの生い立ち;闘争世代の青春 ほか)
第3章 世界一の手術師(鍵穴手術;常識の枠を超越した“手術の鬼” ほか)
第4章 日本医療界を改革せよ(拝啓 小泉総理大臣殿、敬意を込めてもの申します;新・臨床研修制度で本当に医師は育つのか ほか)
第5章 名医を探せ!(名医の条件;日本にも名医はたくさんいる ほか)