不良少年が医学の道をめざす(2)※「神の手のミッション福島孝徳」 第7章【書籍抜粋】

破天荒な息子を
正しい道に戻した母の力

「中学時代は番長グループの参謀役でした。他の中学の番長グループとの喧嘩に勝つための作戦を練り、空き家に呼び出して三方から攻めたりしました。自分は前面に出ず、後方から指示を与える役です。

受験は戸山高校を希望したのですが、体育が2だったので、通知表に2があると一流校には受からないと言われました。母が「孝徳は運動神経がいいのに、どうして2なのか?』と学校に問い合わせたら『福島君は、実技はいいが態度が悪いから2だ』と言われたそうです。それでも、戸山高校には無事に入学できました」

当時の福島をよく知るのが外山勝志名誉宮司だ。明治神宮に奉職したのは、1956年、23歳のとき。福島は13歳だった。二人の年齢差は10歳だが、外山名誉宮司も3人兄弟の真ん中という共通項もあって、親密な交流が始まった。

「新小岩のご実家に夫婦で出向かれるとき、よく留守番役を頼まれました。三兄弟の兄貴分のような役でした。孝徳さんは『タカスケ』、弟の信正さんは『ノンちゃん』と呼ばれ、とても仲のよい3人兄弟でした。

 玄関を入ってすぐの6畳間が3人兄弟の部屋です。押入れに二段ベッドを入れて孝徳さんとお兄さんが寝て、弟のノンちゃんは畳の上に布団を敷いて寝ていました。押入れのふすまの上下に2つの丸い穴を開けていてびっくりしましたが、一人が起きるとき、ふすまを開け閉めすると、寝ている人に迷惑がかかるので、一人で出入りできるように穴を開けたそうです。合理的なアイデアだと感心しました。

母親の和歌子さんは、深川の富岡八幡宮の宮司のお嬢さんで、府立深川高女を出た才媛です。夫婦仲はとても円満でした。信義さんも頭のいい人でしたから、孝徳さんが頭脳明晰なのは両親から受け継いだものですね。

でも、孝徳さんは中学時代からぐれ始めて、和歌子さんは本当に心配されていましたよ。お父さんの信義さんは、家庭をほとんどかえりみず『子育てには男は口を出さない』という人で、父兄会にも一度も出席したことがありません。

『他の同級生のお父さんは来てくれるのに、どうして来てくれないの?』と子供に言われても『うちは、他の家とは違う』とぴしゃりとはねつけていました。ですから、子育てのすべての責任は和歌子さんにのしかかっていました。孝徳さんが事件を起こすたびに学校に呼び出され、『あなたの家庭ではどういうしつけをしているのですか。お父さんは神職なのに』と注意されていたようです」

小学校で医者になると決めた福島だが、高校に入学する頃には、志を忘れてしまっていた。

高校3年生のとき。左から佐藤氏、Dr.福島、左から4番目が滝澤氏。

高校の3年間ずっと同じクラスで、大学時代もバンド仲間として一緒にジャズを演奏していた滝澤征史氏が青春時代の思い出を語ってくれた。

「当時の戸山高校は東大に行かなければ人にあらずといった雰囲気の進学校でしたが、福島君は独特の存在でした。ディキシーランドジャズについてレクチャーしてくれ、一緒にプロの演奏を聴きにいったこともあります。学校にもドラムのスティックを持参して、休み時間に机を叩いたりしていました。福島君はバスケット、私はバレーボール、もう一人の仲間の佐藤君はラグビーと、運動部所属だったのも共通で、3人でよくジャズの話をしました」

大勢に流されないDr.福島の反骨精神を示すこんなエピソードも披露してくれた。

「当時は60年安保で反米の風が吹き荒れ、高校生でも政治に関心を抱き、デモに参加するような時代でした。ホームルームでも日米安保が討論のテーマになったのです。アメリカが悪いという反米ムード一色の中で福島君が発言しました。『僕はアメリカが好きだ。なぜならアメリカにはジャズがあるから』と。政治一辺倒だったクラスメートはあきれていましたが、私にとっては新鮮な意見でした」

たしかに、政治的な側面しか見なければ、アメリカ帝国主義に異を唱えるのは当然だ。しかし、多民族国家であるアメリカには多様な面がある。アフリカ大陸から持ち込まれた民族音楽と西洋音楽が融合してできたジャズは、多彩なスタイルに発展し、人種や文化の枠を超えて人々を魅了する。高校生の頃から、時代の風潮に左右されず、本質を見据える目を持っていたのだ。

「お茶目なところもあって、アナウンサーの竹脇昌作(竹脇無我の父)の物まねで低い声を出してニュース解説をしたりしていました。高校生なのに煙草も吸っていました。制服の白いシャツのポケットにピースを入れるものだから、紺色のパッケージが透けて見え、担任に見つかって職員室に連れて行かれたこともありました」

しかし、そのうち学校を休みがちになる。年上の女性と同棲を始めたのだ。そんな息子を正道に戻したのが母親の存在だ。母が現在の自分を作ってくれたと、福島は深い感謝の気持ちを持ち続けている。

「高校のとき、家を出て、後藤のお姉さんという年上の女性と暮らしました。そんな生活でも、得意の一夜漬けで試験はパスしていました。父からは、『家を出て行け』と突き放されたのですが、そんな私を真っ当な道に戻してくれたのが母です。親と先生の存在で子供は変わります。私がそうでした。母がいなければ私は医者になっていません。中学で不良になり、高校には進んでいなかったでしょう。今頃は新宿でバーテンダーにでもなって、カクテルシェーカーを振っていたのではないでしょうか。

母は本当に偉かった。東大に入り、医師になれたのもすべては母のおかげ。『人間は初志貫徹が一番大事』というのが母の教えです。

同棲生活から母と叔父に連れ戻され、受験勉強を始めました。それまで一夜漬けでなんとかなっていたのですが、さすがに東大入試はそういうわけにはいかず、浪人を余儀なくされました。翌年は東大も慶應も医学部に受かりました。慶應のほうがお洒落なイメージがあるので、『慶應に行きたい』と父に言ったら、『お金がないので東大に行け』と言われました。高校時代の恩師に東京大学理科Ⅲ類に合格したと報告したら、不良だった私しか知らない恩師はとても信じられないという顔をしました。

私は年に2、3回ゴルフやスキーをするのですが、ここで決めたいという重要なときは、「お母さん、力を貸して」と母に祈ります。手術のときは神様ですが、ゴルフやスキーは母にすがりたくなります」

和歌子さんは信義氏の部下に対しても、温かい心遣いを忘れなかった。外山名誉宮司は、盆暮れになると明治神宮の職員とその奥さんへの贈り物を用意する和歌子さんの姿を覚えている。

「『たいしたものじゃないから気にしないで』とおっしゃりながら配っていました。ご夫妻は仲人もたくさん引き受けられましたが、仲人した夫婦に子供が生まれた、小学校入学といったたびに、お祝いです。神主さんの娘さんだから、喜びごとがあったら、心からわかちあいたいという気持ちが強いのでしょうね。

孝徳さんのテレビ番組で、手術が成功して、患者さんの家族と喜び合う姿を見ますが、まさにお母さんの考え方を受け継がれているのだと思います」

平成元年から4年と1ヶ月にわたり信義氏の秘書を務めた中島精太郎宮司も、和歌子さんからはよくプレゼントを渡された。

「『中島さん、これ』といってネクタイをくださいました。『奥さんじゃないから見立て悪いけど』って。宮司からいろいろいただいていますからと辞退しようとすると、『主人は主人、私は私よ』と江戸っ子らしくおっしゃっていました。ドライバーへのご祝儀もいつも弾んでいて、本当に気遣いのできる方でした」

三井記念病院で福島の下で働いた宮崎紳一郎氏も、ご両親のことをよく覚えている。「三井記念病院に勤務していた頃は、明治神宮にある福島先生のご実家を訪ねるのがお正月明けの1月半ばの恒例行事でした。明治神宮の宮司だったお父さんは、古式ゆかしき立派な日本人としか言いようのない人格者です。お父さんはとても厳格で、福島先生は頭が上がらなかったのでは。ご実家では、福島先生の高校時代がいかにめちゃくちゃだったか、よくお聞きました。

福島先生はお母さん似です。顔やしゃべり方もそっくり。お母さんは深川生まれのちゃきちゃきした人でした。お母さんが亡くなられたとき、お葬式で福島先生が号泣されるのを初めて見ました」

  

一流になるために必要な4つのもの

東大では、また持ち前の遊び心がわいて、スキー部や自動車部で遊び勉強はあまり熱心な学生ではなかった。早稲田大学に進んだ滝澤氏と佐藤氏がニューオリンズジャズクラブに入部した縁で、福島も一緒に演奏するようになった。

「早稲田大学ニューオリンズジャズクラブは2008年で創設50周年を迎え、パーティーには福島君も顔を出してドラムを叩きました。私たちは6期生です。

当時は早稲田の学生だけでやっていて、他大学からの参加は福島君が初めてのケースでした。6期生は10人ほどいたのですが、運動部出身が多くて体も大きく、先輩たちからもちょっと怖がられていたのでしょう。『福島君が参加したいと言ってきていますが……』とお伺いを立てると『しかたがないな、お前たちの言うことなら』と了承してくれました。そんな事情ですから、彼も遠慮しながらやっていました。同期のところだけで演奏し、先輩や後輩のところにはあまり行っていませんでした。3年生になってからは医学部の勉強が忙しくなって足が遠のきましたが、リサイタルのときは顔を出していました」

外山名誉宮司も福島のドラムへの傾倒ぶりをよく覚えている。

「高校時代にお小遣いを貯めてドラムを買ったのですが、和歌子さんは『官舎の中で叩くと、隣近所に迷惑だ』と、せっかく買ったドラムを破いて捨ててしまったのです。

そこで、木魚にぬれ雑巾をかぶせて、ドラムのスティックで叩いていました。東大を目指して受験勉強に打ち込んでいるときも、集中力が途切れると、無心に木魚を叩いていたようです。ぬれ雑巾が消音の役目をしていたので、これには和歌子さんも目をつぶっていました」

ニューオリンズジャズクラブは福島にとって、青春時代の最も輝いていた思い出なのだろう。今でも多忙な来日スケジュールで時間が空いたら、ライブハウスに出向いて当時の仲間とドラムを叩くこともあるという。

「福島君のドラムの特徴は安定したリズムです。派手なことはやらないけれど、一緒に演奏していてとても信頼できるドラマーです。大学時代の演奏テープが残っているのですが、今、聞いてもうまいなと思います」(滝澤氏)

大学3年からは医学の道を真剣に学ぶようになり、卒業して医療の現場に立つと同時に、使命感がしっかりと芽生えた。その結果、世界最高の脳外科医となったわけだが、成功の要因を福島は次のように説明する。

「人間が一流になるためには4つのものが必要です。一に良きコーチ、先生との出会い。二が努力。三が才能。四が運です。いくら努力しても運がないと花開きません。

私の場合、一については、世界各地の名医を訪ねて勉強させてもらいました。人の2倍3倍努力もしています。そして、生まれつき手先が器用でした。さらに運が強い。四拍子揃っているわけです」

血のにじむような努力を重ねて、今の地位を獲得した福島だが、自分が運に恵まれたことも素直に認めている。

「考えてみれば、私の人生は、常にツキがありました。中学で体育に2が付いて、無理だと言われていたのに、戸山高校に入れました。当時の戸山高校は学年の半分ぐらいが東大に入る高校ですから、いくら遊んでいても、東大進学は意識にありました。後藤のお姉さんと暮らし始めて、そのまま安逸な方向に進むところだったのを、母と叔父が連れ戻してくれ、東大に合格できた。 そして、医学の中で最も適性のある脳外科を選んだこと。日本の医学界に失望してアメリカに渡りましたが、結果的に、日本を飛び出したからこそ、世界に通用するフクシマになれました。転機の連続だった人生ですが、節目ごとに天が味方してくれたような気がします」

  


「全力を尽くして患者さんを助けるのが、私の人生です」。
世界を飛び回り、ミクロン単位の超精密鍵穴手術を年間600件も手がけ、99%以上成功させているDr.福島は、「神の手」「ラストホープ(最後の切り札)」と呼ばれてきた。60代半ばとなった現在でも、手術にかけるエネルギーは衰えを知らない。
本書はDr.福島の常に進化している手術技術や、世界の若手医師の育成について、Dr.福島が救った数々の患者さんの体験談、日本医療の拠点となる、千葉県にオープンした塩田病院附属福島孝徳記念クリニックに賭ける情熱など、世界一の脳外科医の最新情報を掲載。
また、Dr.福島の原点となる、明治神宮の神職だった父に「人のために働きなさい」と育てられた幼少時代が語られており、すべてを患者さんのために捧げた男、福島孝徳のすべてがわかる最新刊となっている。

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2023年9月15日