人間・福島孝徳<3><4>   ※ラストホープ2章【書籍抜粋】

3.もう一人の「父」との出会い
――訪れた転機 

東大に入り、脳神経外科を選択した福島氏は後の人生を大きく変える大恩人と出会うこととなった。現東京大学名誉教授の佐野圭司氏だ。

佐野氏は東大で十九年間教授を務め、東大医学部脳神経外科の初代教授ともなった人物。退官後に名誉教授となるが、帝京大脳神経外科の拡充にも貢献し、日本学術会議会員も務めた。昭和六十一年からは富士脳障害研究所の理事長と同附属病院院長を兼務、他にも数々の要職にある。つまりは、日本の脳神経外科の開祖であり、八十歳を超えた今もトップに立ち、世界中で「日本に佐野圭司あり」と名を轟かせている人である。

Dr.福島はこの佐野教授(当時)のもとで学生時代を過ごした。そして、医局入りとともに、佐野氏の弟子となったわけであるが、当人によれば「その程度で語り尽くせる存在じゃない」とのことだった。

「私の父ですよ。社会の父、というか、医師としての父というか、ともかく私の人生を変え、支え続けてくれている大恩人なんです」

当然のごとく、多忙な毎日を送っている要人である。Dr.福島からは「是非、佐野先生にも話を聞いてください」と言われたものの、取材しようにもそう簡単には行くまい、と思っていた。しかし、二つ返事で佐野氏は快諾してくれた。

実は、福島氏の同期であった堀教授も、一番弟子であり後輩でもある田草川豊氏(現・三井記念病院脳神経外科部長)も、「佐野先生はとりわけ福島先生を可愛がっていた」と言っていた。

「いやいや、そりゃあまあ彼のことは可愛いですけれど、私が直接教えた教え子は皆可愛いですよ」
と、佐野氏。

「昭和四十三年卒業組は、いわゆる闘争世代。いろいろ大変な環境にいたはずなんですが、福島君だけでなくクラスが皆優秀だったことを覚えています。もちろん学生の頃にも私の講義を聴いていたと思いますが、彼と近しくなったのはやはり医局に入ってから。とにかくよく動く、アクティブな子でした」

どこまでも温和な表情と声で話す。

東大を卒業した福島氏が医局に入ったのは二十六歳の頃。当時の福島氏もまた、この何とも大きくて温かなオーラに魅せられたのだろうか?そんな話題をちらりと出しても、佐野氏はにっこりと笑うだけだった。

「まあ、外科医というのはそういうものですよ」

そう言って、またあの大きなオーラで笑うのだった。

ともあれ、福島氏はこう恩師・佐野氏を表現していた。

「世界の脳外科の重鎮として知れ渡っている素晴らしいお医者さんだというのはもちろんですけれど、医学だけでなく、すべての自然科学、芸術に通じている人だったんです。ドイツ語やフランス語も堪能で、世界のどこへ行ってスピーチしたって拍手喝采を浴びてしまうような大きな大きな人。それになんと言っても愛に満ち溢れた人でした。東大闘争中には心ない学生から『佐野、やめろ」なんて理不尽で汚い言葉を投げかけられたりもしたんですよ。なのに先生は、その学生のことだって親身になって可愛がっていました。僕はそんな先生のありとあらゆる部分に魅せられたし、『この人みたいになりたい」と本気で思いました。この先生がいなかったら、今私が脳外科医を続けているかどうかだって怪しいもんなんです」

さて、研修を終えた福島氏はやがてドイツ(ベルリン自由大学)、そしてアメリカ(メイヨー・クリニック)へと学びを求めて旅立った。もちろん、そうした留学の折には、師である佐野氏が密接に関わってきた。当時を振り返り、佐野氏はこう語る。

「ドイツ留学中は名高いウンバッハ教授に可愛がられたようですね。その後、福島君が『臨床をやりたい』という希望を言ってきたので、次にアメリカのメイヨー・クリニックに送ったんです。ここでは今、WFNS(国際脳神経外科学会)の会長を務めているエドワード・ローズにやはり可愛がられていました。つまり、海外で素晴らしい人に出会い、彼らの影響を受けたんです」

これまでに話を聞いてきたどの人も、福島氏のことを「好きな人と嫌いな人が両方いる」と言っていた。だが、福島氏は留学中に出会ったこの世界の大物医師らには非常に気に入られたようだ。

ドイツからアメリカと合計五年間に及ぶ海外生活を終えて帰国した福島は、一九七八年から一九八〇年まで、東大病院に身を置いた。その当時のことを福島氏はこう語っていた。

「私は東大闘争の時代の卒業生だから、すぐには東大でやらせてもらえなかった。最初はドサ回りばかりでしたよ。でも、そういう環境下でも人が驚くぐらいの手術件数をこなして、実績も上げました。学生時代はたしかに遊んでばかりでしたが、医療の現場に出て、実際に患者さんを持つようになってから『これはたいへんなことだ!』と自覚したんです。実際、患者を持つということの責任は重大なことです。同時に佐野先生みたいな偉大な方にも出会えて本当に必死で学んだんです。なのにドイツ、アメリカから帰ってきて、日本でやるようになってビックリしたんですよ」

当時の先進的な欧米の脳神経外科を肌で感じ、学び取ってきた福島氏は、日本とのギャップに驚いたのだという。そして、なんとか自分が手にした知識と技術を日本の現場に活かそうという努力を始めたのである。だが、そんな彼のことを快く思わない人たちがいたという。

「まあ、一言でいえば異端児扱いというんでしょうか。嫉妬もあったんじゃないですかね。でも、日本全国の多くの医師に言いたい。明治維新の志士たちの気持ちを思い出せ、と。外に新しいものがあるのなら、それを進んで取り入れよ、と。そうすることこそが患者さんたちのためになるんだ、とね。当時は先輩相手にもそういうことを面と向かって言ってたから余計に嫌がられたんでしょうけどね」

この時代は、よけいなストレスを感じたと福島氏は振り返る。ただし、佐野氏はちょっと見解が違うようだ。

「いや、東大時代も別に彼は嫌われていたわけではないんです。そこは誤解してほしくない。まあ、とにかく元気のいいアクティブな男でしたから目立ってはいたかもしれませんがね」

そうして一九八〇年、福島氏にまた大きな転機がやってきた。三井記念病院脳神経外科部長に就任するという話である。これを薦めたのも他ならぬ佐野氏だった。

「東大に戻った私を救ってくれたのはやっぱり佐野先生でした。本当に親身になって可愛がっていただきました。周囲の連中は『佐野先生ほどの人がなぜあんなハミダシ者を可愛がるのかわからない』というような様子でしたけどね(笑)。でも、佐野先生はちゃんとどうすべきかわかっていた。だから『福島君は外でどんどん新しいものを自由にやっていったほうがいい』と言ってくれたんです」

それが三井記念病院へ行く話だった。Dr.福島は当時三十七歳。大病院の部長医師になる年齢としては若かった。

「『そんな若造をどうして部長に?』くらいのことを病院側が感じたとしても不思議じゃないんです。でもね、佐野先生は直々に私に付き添って病院へ来てくれて、『彼には優れた腕がある。私が保証する』とまで言ってくれたんです。天下の佐野先生が直々にそう言うんだから、これで決まりでした」

この頃の話をすると、佐野氏はこう話してくれた。

「三井を薦めたのは、純粋に彼には臨床の力があったからです。欧と米を見て彼が培った力は確かなものだった。それを東大でもしっかりと見せていたから、さらに彼の力を活かす道として薦めたわけです。病院にだって本当のことをそのまま伝えただけですよ」

大きな転機がまたやってきた。若き部長医師・Dr.福島の誕生である。

「まあ、三井へ行っても相変わらずアクティブで、それに猛烈な部長先生だったようですね(笑)。『脳外科医ってのは休んじゃいけませんよね』とか言いながら、部下の医師を家に帰さなかった」

佐野氏はまたも楽しそうに笑うのだった。

4.年間手術数900

それでは、ここで三井記念病院の現在の脳神経外科部長、田草川豊氏の話を紹介しよう。田草川氏はDr.福島が部長だった時代の部下であり、福島氏もまた「私の一番弟子です」と公言する存在だ。福島氏が後述する鍵穴手術の確立を急いでいた時代であり、年間960もの手術を行っていた時代を最も身近で見ていた医師である。はたして「一番弟子」が語る福島孝徳とは?

――他の脳神経外科医と全然違う部分というのは?

あの人はいくつも「すごいところ」を持っています。とうてい真似できないすごさがいっぱいある。特にエネルギーが枯渇しないところは、生来のものなんでしょうね。もちろん私も影響を受けましたから、時には休みたいと思ってもそうしなかったりするようになりましたけれど、もともとの部分が違うんだと思います。

とにかく、あのバイタリティはすごいですよ。手術だって、普通の人はせいぜい一週間に一つ二つです。年間にして100もやったら「すごく多いですね」と言われますよ。それなのに900以上もやってしまう。一日で8つもやったことだってある。やっぱり普通じゃないですね。

――それほど手術件数があるということは、三井記念病院には多くの患者さんが来ていたってことですよね?

たしかに、当時もう福島先生の名前は世界に轟いていましたから患者さんは多かったし、手術も多かったのは事実です。でも、それだけで年間900なんて数字にはなりませんよ。だって一年って365日しかないんですからね。当時、手術の数でランキングを作っていたなら、一位は間違いなく福島先生ですけれど、二位の人がどんなにたくさんやっていたとしても、300くらいだったはずです。段違い、ケタ違いなんですよ。

――というと、当時の福島先生は他の病院でも手術をしていた?

そうです。あの頃は手術をする日が週に二回決まっていたんですね。その日にはもちろん先生はいますし、朝から夜中まで手術をしていることも多かった。でも、手術日以外はいなくなっちゃうんです。ほんとですよ(笑)。今じゃ笑い話になりますけど、部下だった私はたまったもんじゃなかったんですから。

結局、日本中あちこちへ行ってたんですね。ここ(三井記念病院)で年間600の手術をしながら、別の複数の病院で300近くこなしていたんです。医者の仕事は手術だけじゃないでしょ、と言いたかったけれど、福島先生を呼んでまでしてもらいたいってことは、相当に難しい手術のはずなんです。先生がよそですることでたくさんの人が救われるんだと思ったら、言えなくなっちゃいましたよ(笑)。

――当時すでに世界的に名が轟いていたという話でしたけれど、本当ですか?

本当ですよ。海外からも患者さんが訪ねてきましたし、患者さんと同じくらい『福島先生の手術を見学したい』というお客さんも大勢来ていました。世界中からね。

学会で海外に行って、そこで私が「三井記念病院から来ました」なんて自己紹介すると、いろんな国の関係者たちが「ああ、タカがいた病院ですね」という反応をするんです。

――ただ、今でこそ英語が堪能な福島先生も、アメリカへ移った頃にはあまり流暢には話せなかったって聞いてますが?

医者は言葉なんかより、どれくらいの手術をやって、どんな成果を上げてきたかで決まるんです。喋れるかどうかなんてことより、治せるかどうかでしょ。

とにかく羨ましいです。珍しい腫瘍、難しい病気をすでにいくつも先生は治している。私がどんなに頑張ったって、そこまで経験できません。なんといっても腕がいいから、難しい状態の患者さんは「福島先生じゃなければ治せない」ということで、集まってきます。ただ、もしもそういう状況を得たとしても並の医者だったら結果を恐れてしまいます。「難しい症例の手術はやりたくない」という心理も働くものなんです。経験しないとうまくなれないことはわかっているし、難しい腫瘍を治せば実績につながるとも思うし、何より目の前にいる患者さんを救ってあげたい、と願うんですけど、失敗したらどうしよう、という思いのほうが強くなれば、経験できずに終わってしまう。福島先生は、恐れず挑むし、結果として成功させてきた。そこいらへんが普通の医者との違いです。

先生がアメリカへ行くことが決まり、私が後を継ぐことになった時も言われました。

「現状に絶対に満足しちゃダメだよ」

と。そもそも、手術というものに完璧なものなんてないんです。成功した後でもたいていは「うまくいったけれど、あそこは手こずったな。なんでだろう」という思いが残ったりする。凡人の医者はすぐにそういうことを忘れちゃうんだけれど、福島先生は執念深い(笑)。どんなに細かなポイントでも忘れないんです。そうして、「どうすればもっとうまくいくんだろう」と追求していって、次の手術の時にはそれを解決していたりする。しかも、誰も考えつかないような手法で解決してしまう。常識の範囲を超えてるんですよ。

――今、若い先生に優しくしているところを見て、羨ましくなったりしませんか?

あ、もう今はそんな昔のこと、どうでもいいです。それよりも、あの先生の後進を育てようとする情熱に感動しちゃいますよ。当時の先生は手術だけじゃなく、あらゆる場面で無茶なことをしてしまう人でしたし、心に思ったことはその場で平気で口にしちゃう人でしたから、あの人を尊敬していた人も多かったけれど、煙たい存在だと思っている人も少なくなかった。要するに敵もいっぱいいたわけです。

なのに、例えば東大で今、助教授をしている森田君から相談を受ければ、即座に「じゃあアメリカのメイヨー(先にも紹介した世界を代表するクリニック)へ行って勉強してこい」と言って、推薦状を書いて渡してました。独協医科大学で今は教授をしている金君も福島先生がメイヨーに送った人の一人です。優秀な若手にはとりわけ優しい先生でしたよ。当時からね。福島先生がいろいろ後ろ盾になってあげていました。

だいたい、私のことだってそうです。福島先生が突然アメリカへ行くと言い出して大騒ぎになったんですが、結局決意は変わらず、後任の部長を選出しなければならなくなりました。当時、私はまだ三十九歳という若さでもあったので、後を継ぐことには病院も難色を示していたんです。でも、福島先生が「私の後を任せられるのは田草川以外にはいない」と強力に推してくれた。そのおかげで私は今のポジションに就くことができたんです。だからというわけではありませんが、やっぱり私にとってあの人は親以上の大きな存在なんですよ。いまだに私にはおっかない人ですけどね(笑)。


TBS「情熱大陸」、TBS特番「これが世界のブラックジャックだ!名医たちのカルテ」などで紹介。神の手を持つ男といわれる脳外科医福島孝徳の初の人物ルポ。

第1章 ブラック・ジャックと呼ばれて(“神の手”は持っていません;最後の頼みの網「ラストホープ」 ほか)
第2章 人間・福島孝徳(「神の子」?いいえ、ただの不良でした―ブラック・ジャックの生い立ち;闘争世代の青春 ほか)
第3章 世界一の手術師(鍵穴手術;常識の枠を超越した“手術の鬼” ほか)
第4章 日本医療界を改革せよ(拝啓 小泉総理大臣殿、敬意を込めてもの申します;新・臨床研修制度で本当に医師は育つのか ほか)
第5章 名医を探せ!(名医の条件;日本にも名医はたくさんいる ほか)

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2024年5月20日